2015年07月08日

厄除樋堀大師(春日部市樋堀地区)

この厄除樋堀大師までの道筋は裏道でかっ、とてもわかりにくいです。ヒントは樋堀地区集会所のとなりです。
入口はたつた一か所しかありません。道路に面しては冨士自動車工業(修理工場)裏手に厄除樋堀大師なっています。ところどころには案内板の設置あります。お分かりにならない場合はTEL又はお尋ねくださればお知らせします。。

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案内板の設置をしてあります。

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電柱とブロック塀の間を真っ直ぐ進んで太子堂です。 ↑

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途中の様子↑ 左側は月極駐車場、右側はブロック塀の間を真っ直ぐお進みください、⇒右手になります。

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由来の看板設置

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左側に見えるのが樋堀地区集会所、右側に見えるのが厄除樋堀太子堂

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由来
 この地に新義真最勝院の末寺で白雲山正福寺という寺があった。この正福寺に文政の頃(西暦千八百十八年)一人の旅僧が弘法大師とほか二幅の画像を描いた掛け軸を背負って来訪し数日宿泊したという。
 旅僧が寺を去ろうとすると、急に足腰が痛み出発できなくなったという。再び出発しようとすると、またも足腰が思うようにならなかった。旅僧は「これはきっと大師様がこの地に留まりたいとの思召ではないか」と悟り三幅の掛け軸を正福寺に残し旅に出ることにしたところ何の異常もなくなり旅立ちすることができたという。
 この大師様については、古老からの話や本寺の最勝院にもかたり伝えられているところによると、樋堀大師は西新井、川崎大師とともに関東三大師と云われていることついて、首の大師を樋堀、胴の大師を西新井、手足の大師を川崎といわれている。昔から霊験あらたかな厄除大師として地区民はもとより近在から参拝人を集め守護崇拝されてきたものである。なお、正福寺は明治の初期無住寺であったため、廃仏き釈令によって廃寺となったが、地区民はこの建物を太子堂と改め大師様を厄除大師として地区民はもとより近在から参拝人を集め守護崇拝されてきたものである。
その後太子堂は関東大震災により倒壊するなどしたが二回再建された。現在の建物は昭和六十一年十一月(西暦千九百八十六年)に再建され現在に至っている。
※厄除大師祭は毎年四月二十一日にお開帳されている。

☆樋堀自治会の組長さんが順番でまわってきますと太子堂の掃除や催事にも参加するようになります。
子供のころの大師様の祭りには、道路に露天商が軒を並べていました。いろいろなお店がありました。また、舞台がかけてあっても催しもあったように思い出します。大人たちはこの時とばかりに酒を飲んでいました。
posted by やまちゃん at 14:06| 埼玉 ☔| Comment(0) | 樋堀地区 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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